絵柄はみんな違うのに……マンガの絵はなぜ「分かる?」
世の中には数え切れないほどマンガが作られています。印刷のみで流通していた頃から、現在はスマホの縦読み(webtoon)形式も一般化して、読む機会も、描く仕事の機会もより増えているように感じますね。
ところで、絵柄というのは、描く人によって違います。
例えば、文字は「筆跡鑑定」というものがありますが、絵はそれと同じくらい、誰かと一致することはまれだと思うのです。
しかし、絵柄がバラバラでも……人にフォルムが近ければ、わたしたちはどのマンガも「人間だ」と理解して読んでいます。「棒人間」のような形でさえ「人」と認識できるように……。
わたしたちの脳はなぜ、絵を認識できるのでしょうか?
そもそも、なぜ「コップの絵」を見ただけで「ガラスだ」と分かるのか?
人の脳は(おそらく他の動物も)、視覚情報をあまり頼りにしないようにできていると言われています。なぜかというと、情報量が多いほど脳が発熱してしまうのです。
(その状態に近い経験をするなら、ゲーム「うんちがいさがし」のエリート級が的確だと思います。ゲームはいいぞ)
追記:エリート級よりさらに上位の人間国宝級があることを最近知りました。嘘やん……
ではなぜ、目から入った情報を理解できるのかというと、大脳皮質と呼ばれる部分に日々の視覚経験が蓄積されており、似たものが目から入ってきたらすぐ呼び出せるよう「関連付け」してくれているのです。その「関連付け」について、次の研究サイトを参考に深堀りしていきましょう。
この研究をざっくり説明すると、「脳は触覚と視覚を関連付けしている」 という結果をしめしています。おサルさんに木や金属、セラミックなど36種類の材質を2ヶ月間かけて触らせて、人間の脳とどう反応が違うのか見比べているのです。
おサルさんは初めて見る素材を前にした時、当然ながら脳の反応は鈍かったようです。特に普段過ごす環境では見ることのない「金属」「セラミック」「ガラス」などは知らないからか、見た目と触ったときの印象が人と顕著にずれていることがグラフに表れています。
しかし、そのズレも、2ヶ月間触っているうちに人に近い印象に近づいていました。つまり、はじめはガラスを見たときに「見たこと無い……」となっていた脳が、見ただけで「あれは硬いやつだ、石くらい硬いやつ!」と触った時の情報もある程度思い出せるようになった、ということです。
ここを読んでいるあなたも、同じような能力を常に発揮しています。やってみましょう。下の絵は「どんな素材で」できているかわかりますか?
そう、「金属」です。「金属でできたコップ」と命令しAI出力しました。
もしくは「銅」と詳しく考えた方もいるかもしれません。なんにしても、想像できる時点で関連付けできているのです。
つまり絵を理解するということは、描いてあるものをヒントに、見ている人が「思い出す」ことなのです。
子供の頃、公園で遊具を触った時の思い出や、ちょっとおしゃれなカフェで銅製コップで飲み物を頼んだ思い出、そして、日常の車や電車のドアに触った経験。
今までの人生の一瞬一瞬が、知らずのうちに関連付けに関わっています。その月日があったからこそ、この絵が金属である、という素材や内容の理解につながっています。
逆に言えば、見る人の協力なくして、描いたものは理解されないのです。
絵を描くことは、見ている人の記憶を使うコミュニケーション
先ほどの研究ページを読み解き、わたしは「絵を描く=コミュニケーション」なのだと結論を得ました。
描く側は思い出しやすい情報を描き、見ている人は思い出せるようよく観察する。直接会話はしないけれど、その行為はまるで「会話」に近い。
それならば、描いた人も見ている人も、同じことを想像している状態を目指したい。それが今のわたしの表現基準になっています。
例えば、次の絵。人間はたいてい人を注目するようになっているそうですが、これは右の木の存在感もまあまあ大きいですよね。
マンガを読むときのことを思い出してほしいのですが、たいてい、マンガのコマなんて1秒くらいで流して読むものです。もしかしたら、人を見落として次のコマに移ってしまうかもしれません。この人が重要人物なら困りますね。
そんなわけでお手軽に、以下のように調節します。
こんな感じで、注目してほしいものを決めたら、周りのものはあえて描きこまないようにします。グレーで目立たせないのもアリです。ともかく、「この木は重要じゃないよ。モブだよ」というグレードダウンをするのです。
よくYouTubeなどのカラーイラスト講座で、端っこをぼかす手順があると思いますが、あれと同じようなものです。
絵と現実の大きな違いのひとつは「眼球によるピント調節ができない」ことだと考えています。
現実世界なら、奥の人を見たければ木を視界の外に持っていくことで、いわゆるピンボケ状態にすることができます(認識はできないけど)。
でも、絵は画角が固定されている。何に注目してほしいかは、描く側が調節するしかないのです。
描く側が「ここに注目してほしい」と決めていたのなら、見る側も同じように注目できるように「描かない」と決めてかかる。
これで「描いた人も見ている人も、同じことを想像している状態」にできます。
これはあくまで一例で、もっときれいに整える方法は無限にあるはずです。でも、「描かない」は場所を決めれば実行しやすいので、「これができればいいんだ」と描くハードルが下がってくれたら、それがなにより嬉しいです。
「一生懸命描いたのに……」という気持ちは、絵では伝わらない
もちろん、さっきの話は「現実に起こる現象だけを再現して描こう」という意味ではないのです。このサイトについてというところに貼ったマンガのリンクの通り、わたしも現実で出会えないことのほうが描きがいがあるので……。
例えば、自分はよく描けていると思っていたのに、依頼人に見せたら「全然よくみえない、ゆがんでいる」と言われたとします。
相手の反応から「どこかおかしい」と感じたことは発見できた。しかし、自分の脳はよく再現できたと思って描いたので、どこがおかしいのか客観的な判別ができない。
そのとき、相手も丁寧に教えてくれるとは限らないのです。なぜなら互いの脳の中の「良い」と思った基準を表現しているから、何がどれくらい違うのか視覚的に比べられないのです。
最悪、「こんなことをしてきて、意地悪な人だ」と互いに互いを悪く決めつけてしまうことでしょう。
そのようなすれ違いが起こった時は、せめて今わかっている人間の脳の機能を知り、共通しやすいことと、そうでないことで対処を変えるしかない。
脳科学の知識を読んでいて、わたしはそう考えたのです。
共通しやすいことというのは、さっきの絵のピンボケ調節のように、生きていれば毎日無意識に起こりうるようなことです。そうでないことは、おサルさんの実験のような「関連付け」に当たります。
金属を知った実験のおサルさんならおそらく、金属のコップもすぐ受け入れてくれるかもしれません。でも野生のおサルさんに渡したら、おびえて投げ返してくるかもしれませんよね。
何に出会って触れてきたか、完全に一致する人はいません。それが日常に出回っている可能性が低いものほど、共通することは難しいのです。
会話で完結することなら、言葉の定義を確認することで避けることができます。でも創作においては、自分が常にとなりにいるわけでもないし、美術館のようにキャプション(説明文)がついているとは限りません。
かん違いの原因になる部分は、あまり心を込めたり、力を入れないほうがコミュニケーションとして上手くいくのです。
原因とはつまり、ここでは目に見えない「作品にこめた感情」のことです。
作品に時間をかけた。数々の技術をつめた。しかしその見えない気持ちは、絵の中には共有されません。喜んでもらえるかどうかは、その人の美意識にかかっているのです。
でもそれでいいのです。でなければ、巡り巡って「自分の美意識をコントロールされてもいい」ということになります。とてもいいことではありません。
また別の記事でも書きたいのですが、「美しい(美意識)」とは脳の判断基準でもあるのです。それを他人が決める世界は、創作のロマンだけに収まっていてほしいのです。
うーん、やっぱり、この意見はさみしいかな?
でも、もしどうか、あなたが否定的なことを言われてショックを受けていたら、相手と美しさが違っていただけなんだ、と開き直ってほしい、ということが言いたいのです。
それに、美意識が違う人だらけの中、褒めてくれた人に出会えたら、確率の低い出会いに喜びがさらに跳ね上がる気がします。そう考えると、悪くないんじゃないかなと思います。
ただ、もちろんですが、このような考えをしたくなければ忘れていいし、見なかったことにしたってかまいません。
自分の感覚をぜひ、大切にし続けてください。それは必ず誰かの役に立ちます。
あなたの独自性・魅力は、すでに脳の中にある
繰り返しますが、何に出会って触れてきたか、完全に一致する人はいません。
それは人によって何に気づくか・惹かれるかも一致しないということです。
例えば「カッターナイフを折って新しい刃を出す」という仕組み。あの「折る」という発想のきっかけは「板チョコ」なのです。OLFAさんのページから少し引用します。
路上の靴職人たちは当時、靴底を削るのにガラスの破片を使い、切れ味が鈍るとまた割って使っていたといいます。
折る刃式カッターナイフの誕生秘話 | OLFA
その姿をみていた良男はふと、敗戦後、進駐軍の兵隊さんがかじっていた板チョコを思い出しました。「そうだ、板チョコのように刃に折り筋を入れておき、切れなくなったら、ポキポキと折っていくと1枚の刃で何回も新しい刃が使えるぞ!」。
さて、あなたが同じ状況にいるとして、同じことをひらめきますか?
わたしはただ「ひもじい思いさせてるなぁ……」で終わる状況しか思い描けないです。
つまり、「考え方」は本人だけのものなのです。それが見える形になれば、さらに誰かがひらめくきっかけになる。より大きな価値になります。
直接伝えたい、でも言葉にうまくできない……そんな感じで今日まで作品を作っていることでしょう。本当に伝えたい意図や世界は、きっと、いま存在する言葉では足りない。
だから人は、自分の中にある「どう単語にしたらいいのかわからない考え」を再現してくれたものに出会ったとき、最高に救われた気持ちになるのだと思います。
それが「感動する」ってことなんじゃないかなと。
わたしはそれが「マンガを描くこと」でした。またゲームを楽しむことでもあり、そして脳科学に出会ったときもそうでした。
だからあなたも、たくさんの発明品や作品を楽しんで、マンガでも、ゲームでも、文章でも、会話でも、音楽でも、やりやすいことで自分の興味を再現してほしい。
そこにあなたの魅力はあるのです。
一人ひとりの頭の中が、人類にとって大きい資産なんだロジ~
まとめ
- 絵が理解できるのは、あなたが今までの経験で近いものを知っているから
- 絵は「見る人の記憶を使うコミュニケーション」
描く側は見て伝わるものを描き、見る側は思い出せるよう観察することで共有する楽しみが生まれる - 独自性は外を探さなくとも、自分の頭の中にある
参考資料(外部サイト)