あなたは、エスカレーターを歩きますか?
わたしは歩いたことがあります。
もちろん、基本的には止まってぼーっと使っています。でも例えば、両側ともエスカレーターで、階段が近くにないと歩いてしまいます。
人がいっぱいいたら、やっぱり空けてあげたいしスムーズにしたいと思ってしまう。同じような人は割と多いのではと思います。
こんな感じで、本当は守ったほうが安全であるけど、実際は守られないことは、世の中に多く存在します。
法定速度も、標識より少し速めに走っている車が多いでしょう。でもそれは急いでいるほかに、例えば「この速度でないと渋滞してしまうから」とか、大勢でバランスよく生きるために感覚的に選んでいるのだと思います。
その場の雰囲気に適応するのは、身を守ったり、生きのこるのに必要です。なので、絶対に悪いことだとはわたしは思いません。
一方で、治安を守るために、または過去に大きな事故があったからこそ「何が何でもルールを守る」と決めている人もいると思います。あるいは、仕事の間だけは必ず守ると決め、休みの日とルールを分けている人もいるでしょう。
そんな人達が、柔軟にしすぎてしまったルールを元に戻して、バランスを保っていることにも感謝しなければなりません。
長くなってしまいましたが、ここで何が言いたいかと言うと、ルールを破る人も、守る人も「それが最善策だ」と選択して行動しているということです。
今回はそんな「相反する正義」から、キャラクター創作を考えてみましょう。
“人は悪いことをわざと望んだりはしない” それが法に触れるようなことだとしても……
例えば、医師はかつては〔吸血〕ヒルを治療に使っていたが、それは血が多すぎるから病気になるのだと考えていたからだ。彼らは善いこと──ここでは患者を健康にすること──を為そうとしていたことには違いないが、ただ、現代の私たちが持っているような情報、つまり、血が多すぎることは病気とは無関係であるという情報は持っていなかった。私たちにはみな、善いことを為したいという欲求が備わっている。しかしながら、体系的な知識を持たないことには、正しい結論に至ることができない。
話が通じない相手と話をする方法|ピーター・ボゴジアン、ジェームズ・リンゼイ、藤井翔太(訳)(晶文社)
タイトルも含めて、この本からの引用です。タイトルがかなり挑発的だけど、この本のいう「話が通じない相手」とは、引用文のように知るべき事実を知らないままでいる相手を指しています。
つまり、行動内容はともかく、より良くしようとする姿勢は、常にみんな取っているのです。
この言葉は現実の人はもちろん、キャラクターの行動も一度冷静に観察させてくれます。
生活を維持する方法がわからなくて、泥棒するしかなかった子供たち。平穏を取り戻すために、一番身近な肉親を殺してしまった登場人物。……これらのキャラクターに感情移入できるのは、読んでいる側も「それなら仕方ない……」と思える要素があるから起こり得るのだと思います。
つまり、この「仕方ない」という感情に、人は冒頭のエスカレーターを歩く行動と同じ「これは例外に許されるルールだ」を引っ張り出しているのではないでしょうか。
周りからはひどく映る行動も、本人はそれが最善だと信じている
こちらは「無差別殺傷事犯に関する研究」という、法務省のページにある資料の一つです。他にもあらゆる事件を分析したものが公開されています。
この研究の8章の最後に、犯行動機が60件近くまとめられています。
無差別殺人なので理由は様々ですが、実は快楽目的のいわゆる「愉快犯」というものは、片手で数えられるくらいしかいないことが分かります。
では多くは何なのかというと、
- 現状に対する憂さ晴らし(気持ちを発散させる方法を他に持っていなかったから)
- 事件を起こすことが、自分の考えを訴えるのに適していたから
- 今の環境や人間関係があまりに耐えられず、「手っ取り早く距離をとる(=存在を消す、または刑務所に連れて行ってもらう)」のに適していたから
というような、「本人にとっての最善策」を取った人々です。
一部を抜粋すると、
- “自分の話が信用されず、親族等から見捨てられたという悔しさや怒りを他人に分からせるため”
- “肉親と距離を置くために、殺人を犯して刑務所に入ろうと考えたため”
- “上司に対して不満を抱き、殺人事件を起こすことにより勤務先を辞めるとともに上司を苦しめるため”
……など。
最後まで完遂できるか確認するために、関係ない人を実験体にする、という人もいました。
どれも動機だけ見ると「そんな極端な、なぜそんな発想を……」と思うことばかり並んでいます。
でも例えば、「肉親と距離を置くことができない」というところは共感するところがあるかもしれません。年齢層を見るに10代のようですから、経済的に難しかったのだと推測できます。
そして自分が同じ年の頃、家族をどう思っていたか。わたしの場合、家出の計画を立てたりしていたので、環境の差はともかく、不満はあっただろうと思います。
他人事のように読んでいるけど、自分も同じような境遇があったということは、極論、同じような行動をとれる条件はあったとも言えて、なんとも恐ろしいです。
ここで大事なことは、引用文の吸血医療が間違っていたのと同じように、今自分が信じている最善策が、必ずいい結果を導くとは限らない、ということです。
でも、そんなのわからない。
だから、それを無視して自分の最善策を貫いた結果が、現実では罪となり、創作ではドラマとなるのだろうと思うのです。
その最善策に疑問を持つとき、正義が変わる
同じ本から、今度は自分の最善策に疑問を持ったときの事例の引用です。
これは本の引用から引いた史実ですが、このようなことは、マンガや映画でも一度は見たことがあることと思います。
1970年代に(中略)ポートランド州立大学の心理学教授フランク・ウェスレー博士は、朝鮮戦争中にアメリカ人捕虜のうち北朝鮮に亡命した者がいたのはなぜかを調査した。彼の研究によれば、亡命者のほぼ全員が、ある一つの訓練所の出身者だった。そこでは訓練の一貫として、北朝鮮人は残忍で冷酷な野蛮人であり、アメリカを軽蔑し、一心不乱にアメリカの破滅を目論んでいると教えられていた。しかしこの捕虜たちが捕獲者〔である北朝鮮人〕の親切さに触れたとき、訓練所での洗脳が解けたのである。彼らが亡命する割合は、北朝鮮人について何も聞かされていなかったり、中立的な説明のみ受けていた捕虜よりもずっと大きなものだった。
話が通じない相手と話をする方法|ピーター・ボゴジアン、ジェームズ・リンゼイ、藤井翔太(訳)(晶文社)
これがフィクションなら、例えば、最初は敵対していたキャラクターが、主人公が自分たちのために戦っていることを知って、最終的に協力してくれるような展開、というところでしょうか。
もしかしたら、見覚えがあるかもしれません。
キャラクターの描写は、現実にとても寄り添っているものなのです。
キャラクターらしさとは、「正しいかどうかは抜きにして」そのキャラクターがいいと信じている行動をさせること
さて、あくまでここは創作(特にマンガ)を考えるサイトなので、ここからはこの知識を創作に活かす場合のお話をします。
先程まで取り上げた人間の行動をキャラクターづくりに活かすなら、キャラクターらしさとは「正しいかどうかは抜きにして」そのキャラクターがいいと信じたことを行動させること、と言えます。
見た目がわかるといいと思ったので、自分の創作マンガから「これかな?」という一例を抜粋してみます。
(ただ、描いたのはこの記事を書くずっと前なので、いい例じゃなかったらごめんね)
まずは「機械仕掛けの悪魔」より。
主人公の太陽は、首から下が機械の高校生です。彼は過去に父親が作った薬が原因で、身体のほとんどを失い、育ての父親に今の身体をもらいます。
それもあり、太陽は痛みを感じない体を活かして「体を張って助けることが自分にできることだ」とマンガの最初では信じています。
それを、薬の関係者に追われてボロボロのときに、同じく薬で足が溶けたために義足を履いているキャラクター・モナカにビンタされて怒鳴られます。そのシーンより。
「現実見ろよ!=とっくに関わってる、いま体を張ることは無意味だ」と強い口調で教えてもらいます。そしてこのあと、太陽はこの場から逃げる行動を取れるようになります。
引用元の言葉を借りれば、太陽の最善策が変化した、ということですね。
体を張って守る、というのは決して悪い正義ではないけど、それ以外の方法を思いつくためには邪魔だった。それをモナカの一言で最善策に疑問を持つことができた、という流れになっています。
もうひとつ「東亰スチールコンプレックス」から。
登場人物の一人・レイが、実験サンプルになるために、自らの頭にドリルを突き刺そうとするのを主人公・スバルとつりがねたちが説得するシーンです。
レイの兄・バトウは機械の体(義手義足など)の開発に没頭していたのですが、そのためにレイとあまりコミュニケーションを取らず、ほったらかしにしていました。
そのため、レイは「役立たずと思われている」と焦り、早く必要とされたいと思ってこのような行動をとったのです。
レイのような行動はかなり依存的で、どちらかというと今回の記事に近い行動かもしれませんね。まさに、「周りからみればひどく映る行動だけど、本人はいいと思っている行動」です。
でも、こういうキャラクターは描く分には楽しいのです。事件を引き起こしてくれる何かがなければストーリーにならないし、依存的なキャラは動かしやすい気がします。
説得される側に今回は注目したけれど、例えばモナカの強い口調も、いい行いかと言われれば、おそらく違いますよね。
他のキャラクターなら、もっと優しい言い回しを選んだかもしれない。そういう振る舞いの差からも、キャラクターが感じ取れるのではないかと思っています。
いいキャラクターは、別に正しくなくていい
最後に、推しマンガをご紹介します。道徳的に正しくないことを、まっとうした主人公のお話です。
「Waltz(ワルツ)」というマンガです。伊坂幸太郎さん作の小説「魔王」「グラスホッパー」に登場する、殺し屋「蝉(せみ)」が主人公のスピンオフ作品です。
彼が「ただの金になる殺し」から、岩西という怪しいプロデューサーと出会い、「プロの殺し屋」として成長するお話を描いています。
作中、蝉は死に関してドライな価値観を持っています。「食物連鎖と同じ」だから、人を殺すことができる。
豚や魚が死んでも、なんにも思わないのと同じように、弱いやつから死んでいくのが当たり前なのだ、と、人間を殺すことは一切ためらわないのです。
この蝉の価値観は、エンディングまで変わることはありません。
しかし、話が進むにつれて、個性的で手に負えない殺し屋がどんどん現れます。しかも蝉の見えないところで、互いに繋がりや因縁があるらしい。
仕事を依頼されたり、事件に巻き込まれたりして、何度も命の危機を迎えるうちに、蝉は「自分たちもいつか死んでしまうだろう」という予感をしたのか、最後の方には次のセリフを言います。
「つうか、お前が呪わなくったって 俺達きっとヒドイ死に方すると思うぜ?」
Waltz(第6巻)
そう、蝉はこの戦いで、自分もいつか、食物連鎖に巻き込まれることを覚悟したのでしょう。
それでも、自ら死を選ぶ気はない。このドライな価値観を理解してくれる人が、この世界にいなくても、蝉は岩西という居場所で、この仕事に誇りをもって生きていくのです。
このマンガの好きなところは、「殺し屋」という犯罪行為に誇りをもつお話でありながら、蝉や岩西への感情移入もしっかりさせてくれるところです。その技術力にただただ感動して読んでいました。
蝉というキャラクターもかなり好きになっていて、人生で好きなマンガの1つになっています。
人を殺してはいけない、というのは当たり前だとわかっているものの、何故かと理由を聞かれれば、納得できる答えを出す自信はあまりありません。
そういう意味で、蝉の「食物連鎖と同じ」という価値観は、口にしないまでもちょっと分かるな、という人もいるんじゃないかな、と思ったりするのです。
人間だけ特別視して、豚や魚は違うのか?
ここのあたりが、冒頭のエスカレーターのような、線引が曖昧な正義とつながっているんじゃないかなと思うのです。
とてもいい加減で、人間らしい。身に覚えのあるいい加減さが、好きになれる理由なのかなと、そう思います。
人間が愚かしいから、ルールはできる
つまり、アートのなかでも「芸術的価値の高いハイアート」と認められるということは、言い方は極端に聞こえるかもしれないけど、「世間の価値観に反してもいいよ」というお墨付きを得ることなんです。アートという現実世界から分離した世界に入れば、たとえ有害なものであっても保護される。そういう意味で、アートって基本的に有害なものが多いんです。
東大の先生! 超わかりやすくビジネスに効くアートを教えてください!|三浦俊彦(かんき出版)
今回の記事は、実に愚かしいです。犯罪の資料を持ち出しておきながら、わたしの目的は、キャラクター表現の研究ですからね。
人間は人に理解されない欲求を、隠し持っています。そしてそれを満たすために、趣味や仕事に没頭したり、創作したり、とある作品に熱中するのです。ここを読んでいるあなたにも、あるのではないでしょうか。
状況によっては、自分の欲求を「危険性がないものです」と、他人に認識してもらう必要もあるかもしれません。
つまり、単純に道徳を守ることで、自分のしていることまで認めてもらって、居場所を守っている。それが犯罪を起こさない、答えの一つなのかなと思います。
ジェットコースターが成り立ってるのなんて、まさにそうですよね。乗り物を管理する人が安全性を守ったうえで、身長など条件を満たした人だけが乗るから、レールの上という範囲だけで全力で大騒ぎできるのです。
道徳を守るというのは、実に戦略性のある生き残り方なんじゃないかな、と思います。
なんとも当たり前な言葉で締めますが、明日は我が身だとも思っているので。
紳士に真摯に、欲求を振る舞いましょう。お互いに。
まとめ
- キャラクターらしさとは「正しいかどうかは抜きにして」そのキャラクターがいいと信じている行動すること
- 人は常に最善策で生きている。周りからみればひどいと思う行動も、本人はそれを「最善策だと信じている」状況だから、こじれてしまう
- 最善策を疑うきっかけを得たとき、キャラクターの成長が描ける